渡辺英明君「いのち輝け」
■渡辺英明君(38歳) 奇跡の生還
渡辺英明君「いのち輝け」
このレポートは母を失い、父を失い、ゆきわりそうで生活している渡辺君の生命を守るべくゆきわりそうに集ったっ人々のレポートです。
医師、看護師、ヘルパー、ケースワーカー、スタッフ、行政が心と力を傾けながら過した1年間に得た無心の友情の中に、私たちの本格的な「いのちについて」の在り方を学ぶ事のできた事例としてお伝えします。
これからも長く続くであろうこの道を、ただひたすらに歩むすべての人々に恵みあれ!
姥山寛代
約1年の入院生活を経てゆきわりそう・アットホームに戻ってきた渡辺君 がんばれ!
2008年12月ミュージックパーティにて。
お姉さんと英くん。
聖母病院入院 →
国立精神神経センター病院転院 →
聖母病院転院 → 退院:アットホームへ
■2008年2月中旬
通常であれば2~3日で落ち着く風邪が、薬をのんでもなかなか治らず熱が上がったり下がったりの日々が続く。
■2月17日(日)
日中は、特に変わった様子はなかったが夕方以降、熱が上がり本人もかなり辛そうだった為、聖母病院に電話を入れ受診をする。
バイタル・診察・レントゲン・血液検査・点滴・CT、と一通り検査が続き、左肺の下3分の2が白く胸膜炎(きょうまくえん)及び膿胸(のうきょう)の疑いと診断される。また、呼吸不全及び腎機能障害が認められ、そのまま緊急入院となる。
胸膜炎や膿胸は、今日明日どうにかなってしまう病気ではないが、もともとの病歴、さらに難病の為に処置が難しい事から、重篤な状態であるとの説明を受ける。
■2月19日(火)
午前中、姉が面会に行った時には変わりなかったが、夜になって容態が急変。意識レベルが低下し状態が思わしくないので、直ぐに病院に来るよう連絡が入る。
病院到着時は、少し状況は良くなっているが、血液中の二酸化炭素が多く酸素量とのバランスが非常に悪い。このままでは朝を迎えられないと判断され人工呼吸器が取り付けられる。深夜にまでおよぶ医師・看護師の懸命の処置で一命を取りとめた。その後、医師より『てんかん発作が起きたか、タンが詰まった可能性があるが、はっきりとした原因はわからない。』との説明を受ける。
■2月 ~3月
TVを見たり、CDを聞いたりというベット上での入院生活が続く。ゆきわりそうからは多くのスタッフが面会に行き、笑顔で迎えてくれ、声にならない声で会話を楽しんだ。医療面では、もともとの疾患=ミオクロニーてんかん発作やB型肝炎キャリアー、多発性膿胞症といった難病もあり、治療が難しい。微熱が続いたり、発作を起こしたり、薬疹が出たりと医療関係者を悩ませた。また、人工呼吸器での生活が長くなり、機械に頼ってしまい自発呼吸をあまりしない体質になってしまった。
■4月16日(水)
気管切開の手術を受ける。 胸水は、ほぼ全て抜け、レントゲンで見る限り、肺もキレイになっている。呼吸を安定させて次の治療に進むとの事。
■4月22日(火)
胃ろうの手術を受ける。点滴では使用できなかった投薬が可能になる等のメリットがある。
■5月 ~6月
気管切開により苦しそうな表情はなくなり、口元がはっきりするので、話も聞き取りやすくなった。また、胃ろうを始めてから栄養状態もコントロールできており、元気になってきた印象をうける。体調が良い時には、呼吸器を話が出来るモードに切り替えて、声を出しておしゃべりするというリハビリもスタートした。久方ぶりの生声は感動的であった。また、ゼリーやジュースなどを口から少しずつ食べれるようになり、身体面でのリハビリもスタートした。
医師より、転院の話が出る。理由は…
1/聖母病院には、呼吸器を外す為の専門医:神経内科医がいない。専門のリハビリ病院等で、呼吸器を外す為の取り組みを行ってはどうか。
2/治療を必要としない患者を長く入院させておく事はできない。
◎奇跡的な出会い
■9月21日(日)
これまで20年「第九」を歌い続けている「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」団員に:古澤嘉彦氏(医師)が現れる。自己紹介の際、医師である事がわかり、さらに話を進めてゆくうちに専門が今の英くんに必要な神経内科医である事がわかる。また、病院は国立精神神経センター病院で、ゆきわりそうの利用者でも特に重度な障害者が数名お世話になっている病院であった。合唱団練習終了後、代表と担当の北原とでさらに詳しい経過等をお話しし、何とか転院できないものかと相談する。
「長期入院は出来ないが呼吸器を外す為という明確な目的を理由に、転院は可能ではないか。」との嬉しいお答え。病院に戻って上司と相談し、後日その結果をいただける事となった。
古澤先生との奇跡的な出会い!第九がもたらす計り知れない「不思議な力」の凄さ!を信じずにはいられなかった。考えてもみなかった運命の到来であった。
■10月10日(金)
古澤先生より転院及び入院の件について以下の通り返答がある。神経内科部長の確認が取れ、呼吸器を外す事を中心に診断及び治療を行う。入院期間は概ね1週間~3週間。通常であれば一度初診で病院に行き診断を受け、その後入院等の話になるのだが、すでに事情をご理解いただいており、聖母病院:主治医の紹介状の内容で問題が無ければ、転院が可能になるとの事。直ぐに姉に伝え、転院について同意されるようであれば主治医に紹介状を書いてもらうようお伝えする。
■10月17日(金)
国立精神神経センター病院への転院が10月27日(月)と決まり、移送車の手配や簡易式呼吸器(移動用)の練習が始まる。
■10月25日(土)
転院2日前。最後の面会には、和太鼓教室スタッフの他、高橋先生はじめ講師4名も同行。あまりの人数の多さに驚いたようだが、ボーっと眠そうな表情も次第に明るく元気になってきた。部屋を埋め尽くす程の面会者の多さに看護師さん達も驚いていた。
■10月27日(月)
転院当日。ほぼ全員の病棟看護師さん達に、盛大に見送られ、少々寂しそうに車に乗り込んだ。本人は8ヶ月ぶりの外出に、少々緊張気味であった。姉の他に主治医と呼吸器メカ担当医が同乗。8時45分出発。
10時 国立精神神経センター病院到着。
入院手続き、必要な申し送りを済ませて、新たな入院生活がスタートした。
■10月30日(木)
姉より驚きの報告が入る。 昨日、午後より呼吸器を外して生活しており、今日は朝から外しているとの事。
■11月 4日(火)
夜間も、本人の強い希望で呼吸器を外し、看護師見守りのもと、しっかり朝を迎えられた。急いでいるつもりはない様だが、本人が呼吸器を外してしまい自分でどんどん呼吸をしてるとの事。立位や歩行器歩行などリハビリもスタートし、レントゲンや血液検査等、内部的にも問題無し。
■11月10日(月)
古澤医師より退院の話をいただく……。「呼吸器については、機械が送り込む呼吸の補助回数を徐々に減らしてゆく、ソフトランディングの形をとるつもりでいたが、本人の希望で早々に呼吸器を外し、結果夜間も問題なく1週間以上となる。そこで、一度退院して日常生活の中で身体を作る=体力・筋力等を元に戻す事が大事なのではないか。発声や肺活量は嚥下と密接な関係があるものなので、おしゃべりをたくさんしたり、歌ったり和太鼓をやったりすることで、回復させてからの方が、次の目標である摂食のトレーニング・リハビリにもより良い効果が期待できる。」との見解。
古澤医師曰く、「彼は、自ら奇跡を創っている。呼吸器をはずす為の医療的な処置は何一つしていないんだよなぁ・・・。夜間も自らの意思で呼吸器を外したし、自分でどんどん息してる。凄い!」と。
■11月11日(火)
退院についての打ち合わせが進む。
具体的な退院日については、英君にかかわるゆきわりそうスタッフが、胃ろうと吸引、他注意事項について医師より指導を受ければ明日にでも・・・。との事だったが、代表より「約1ヶ月を目安に聖母病院に戻り、その間ゆきわりそうスタッフが順番に聖母病院へ行き指導を受ける。又は練習に足を運ぶ。」という案があげられている事を伝えると、「それは名案!さすが姥山さん。」と古澤医師も賛成のご様子。転院の話を主治医に直接相談してみるとの事。
■11月25日(火)
転院当日。国立精神神経センター病院のチェアキャブで姉と古澤医師同乗。
10時55分 聖母病院到着。4Fに上がると、看護師さん他たくさんの方々にお帰り!と言われ首をコクリ。すごく暖かく迎えてくれていたが、英くんの表情はさえず…。どの看護師も元気になった姿を喜び、そして驚きの様子で語りかけてくれていた。考えたら、聖母病院のスタッフは皆ベット上での彼しか知らないので車椅子を自走している姿は本当に驚きの姿だったのだと思う。車椅子からベットへの移乗、そして端座位。自ら上着を脱ぐ姿など、どれをとっても看護師さんにとっては初めて見る光景で「すごい!出来るんだ~!」の声。英くんは嬉しいのか悲しいのか、涙ポロポロ……。吸引と胃ろうの勉強会について、具体的な時間等の打ち合わせを始める。
■11月26日(水)
ゆきわりそうにてミーティング。英明姉をお呼びして、ゆきわりそうでの受け入れ体制や看護体制。生活上必要なベットや医療器具、生活用品についての相談。また研修計画、退院の日程等の打合せをする。姉より、ゆきわりそうでの生活を希望されている事。そして、ゆきわりそうでは全力を尽して看てゆく事をお互い確認する。
その後も、数回にわたり区の職員、あゆみの家の職員含め綿密な打合せを進める。また、生活の場「アットホーム」のスタッフともミーティングを重ねてゆく。
■12月1日(月)
聖母病院にて主治医・M医師とケースカンファレンス。医療行為等のリスクについてや、服薬について。さらに、退院後の受診等の打ち合せを行なう。現状、発熱があり誤嚥性肺炎の可能性がある為、年内の退院が難しい旨、伝えられる。
■12月2日(火)
研修にむけて最終の打合せ。12日からの研修スタートにむけて、時間調整を行なう。また、主任看護師自らマニュアルを作成していただけるとの事。モデルは英くん本人で、デジカメを使用し注釈を加えるというオリジナル。
■12月12日(金)
聖母病院での研修スタート。10日間にかけて毎回数名づつ、延べ約50名のスタッフ(看護師含む)が研修を実施する。
■12月23日(祝・火)
椿山荘のミュージックパーティー参加。待ちに待った、初めての外出。代表挨拶で、430名の前に出て紹介されその後、古澤先生との出会いのきっかけとなった第九の演奏を聞いて退室する。
■12月24日(水)
外出練習を開始する。聖母病院にお迎えに行き、アットホームにて数時間過ごし病院に戻る。
◎2009年1月下旬
主にケアにあたるスタッフは、単独で研修に行き、吸引と胃ろうケアについての最終チェックを受ける。さらに、馬場ひふ科医院にて「清潔と不潔」についての勉強会を実施する。
■2月12日(木)
聖母病院退院。ゆきわりそうアットホームでの新生活が始まる。時折、聖母病院の看護師に電話で相談をしたりアドバイスをいただきながら、関係スタッフで試行錯誤を繰り返し、着実に毎日の生活を送っている。2週間に1度の定期受診では、ゆきわりそうで本当にやってゆけるのか?と医師に心配されつつも、発熱や肺炎など大きく体調を崩す事無く、2ヶ月が経過した。 現在も、顧問医の医療チームや東京女子医大の教授・助教にサポートしてもらいつつ、スタッフは日々勉強を積み重ね、本人もますます元気に楽しく毎日を過ごしている。
■4月 4日(土)
ゆきわりそうグループ祭に参加。再び代表挨拶で紹介され、約400人の前で元気な姿を披露。1年ぶりの和太鼓も力の限りにたたいた。その後部屋にピアノを持ち込み、ピアノ科に入ってレッスンをすることとなった。ピアノ科の中沢先生がレッスンの日には来室してくださる事になる。満開の桜と春の青空の下、幸せな気持いっぱいの春を迎えることが出来た英明君。
まだまだ続く緊張の日々。1日1日が無事に終わってゆく事に心から感謝である。こんな世の中だからこそ、彼が教えてくれている「命の重さ」を大切に、今後もゆきわりそうスタッフ・看護師・ご家族・医療関係者が連携を取りあって、より良いケアにあたってゆきたい。
また、皆様の前でさらに元気な姿をお見せできますように!!
みんなの合言葉、「今日も元気 あしたも元気」これでいこう!
2009年4月21日 記:北原 勢