さようなら清水さん

清水ゆき江さん、
私はあなたのこと生涯忘れません

親しくお友達感覚でお付き合いしていた清水ゆき江さん(95才)が、9月10日にアパートゆきわりそうでお亡くなりになりました。

携帯電話がなり、何気なく耳にあてると「7時20分、清水さん脈拍がありません」とのこと、自宅の玄関に着いたばかりの夜でした。
私はすぐにゆきわりそうに引き返しました。
清水さんのお部屋はいつもと変わっていません。
「清水さん」と声をかけると「あら姥山さん、元気。よく来てくれたわね」と語るかのように静かな寝顔でした。
この3ヶ月で何故だかどんどん痩せていく。理由がないのにどんどん痩せるのを見て、厭でも近々お別れのときが来るのではないかと予感がしていました。7月から約3ヶ月、眠っている時間が長くなり、しっかりしていた知的な判断がちぐはぐになり、そのうち眠っているときに様々の人生のどこかで味わった苦悩を吐き出すように激しい口調で訴えていらっしゃいました。
やがて排泄、食欲は3日に1回となりました。小さくなった清水さんを褥瘡には絶対にさせないと、医師のお許しをいただきシャワー浴をしました。

16年間、しっかり者の清水さんは、飴とムチでゆきわりそうのスタッフを完全と言うところまで鍛えあげた方だと思います。清水さんは自分の要求を絶対に通しぬく方でした。
「入浴は私が一番。食事は私が食べたいものを。出来るだけたくさん外出すること。デイサービスには絶対いかない。ヘルパーさんとして接してくれる時は私のための時間なので、私のためにだけ使うこと(ついでに自分の買物をしたり、途中で知ってる人に会って立ち止まってお喋りをしたりしてはいけない)。物を買うときは高いと思ったら絶対に安いものを見つけること」など。それは10円の差でも許されず返品をしに行く事も何度かでした。
週に1回はお菓子を買いに外出。自分が食べるわけではなく、お部屋を訪れる人にどうぞ一口いかが?
お誕生日に小さな包みを作っておめでとう。
スタッフが結婚するとお祝いを。
そういえば私も毎年誕生日には最上のストッキングをいただきました。私もそれが嬉しくて、年に3回は特上のお寿司を食べにいく事がならわしになっていました。
12月のミュージックパーティの前になると「私は着るものがないんだよ、誰も買ってくれる家族がいないからね」に応えて、その年ごとに上下のお似合いになるものを買って差し上げました。お腹の周囲が1メートル位あるので、洋服屋さんもわかって調達して下さいます。

しっかりと自分を主張し、口やかましく全てを関わる人に納得させ、悠々と生きてこられた清水さんについて、私は心のどこかで拍手をしていました。
「とにかく全受容してみよう」
「言ってる事は当たり前、こっちが悪いんじゃないの?」
「いざいなくなったら淋しくなるよ、言われるとおりやってみよう、後悔しないように」と。そのとおりです。いなくなられたらがっくりと淋しくなりました。

今年の冬、ゆきわりそうのみんなが愛していた大型犬のポチが死にました。
清水さんは夕食の後、ポチに自分のご飯の残り物にお肉をいれ、お箸でよくこなしてから食べさせるのが日課で「ひとつお仕事が減っちゃったよ」と、時々悲しそうにつぶやいていました。
母親のように「あんた体に気をつけなさい」といつも手を握って会いに行くのを待っていて下さったものです。あの嬉しそうな、赤子のような素直な清水さんの笑顔は、私にとっては大きな励ましでした。
「皆さん! 今日もありがとうございます。 いただきましょう」と清水さんの合図で始まるママキッチンの食堂での夕食も何となく淋しくなりました。

「ゆきわりそう みらい」でのお通夜には、たくさんの人がやってきました。
お寿司屋さんからは山ほどのお寿司を、お団子をいつも買っていたお菓子屋さんからはわざわざお香典が、地域の中から湧くようにお別れに人々が訪れました。ゆきわりそうのスタッフも、住んでいる人もヘルパーさんも、みんな涙と笑顔で清水さんの手や頬にふれてお別れをしました。

お経の代わりにピアノを4時間も引き続けた関原さん、最後までつきっきりで清水さんに添っていたたくさんの人々に、祝福を与えて清水さんは逝きました。死への怯えもなく、痛みもなく、眠っていった清水さん「そんな風に死にたいね」といつも言っていましたね。
私はあなたのこと生涯忘れません。

2007年9月18日
ゆきわりそう代表
姥山 寛代

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